昭和52年08月31日 朝の御理解



 御理解 第8節
 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

 信心を段々頂いて参りますと、愈々自分が分かって参ります。もう愈々自分が分かれば分かる程、今日の御理解を頂きますと、屑の子われという自覚が愈々深くなって来るばかりで御座います。本当に信心によって自分が見極められると、そこから屑の子の自覚が出来る。甘木の初代の教歌の中に「われよしと思う心を仇として、夜ごと日ごとに闘いてゆけ」という様な御教えがあります。
 だから本当にわれ屑の子という自覚が出来たら、われよしと言う様な心は生まれて参りませんのですけれども、中々屑の子の自覚が出来た様で出来てない証拠に、自分は良いのだけれども、あっちが悪いんだと言う様な心、もうここには本当に助かり難い原因がそこにあるです。自分は良いけれども相手が悪い。もうお道の信心さして頂いたらね、本当に愈々屑の子の自覚である。
 本当に自分が何も出来ないつまらない、自分のごと汚い人間はあるまいと、もう本当に神様も手が付け様があんなさるまいと思う様な辟易する様な自分の心を自分で見極めて参ります。そういう自分でありながら、分かって来ながら、時折は自分が悪いのじゃない、あちらが悪いんだと。そこに愈々信心の、言わば深さというものを極めていかなければならない。それこそわれよしと思う心を仇の様に思って、取り組んで行けよというのです。だからもう夜ごと日ごとにと言っておられるのですから。
 私共の心の中には、もう自分の様なつまらん者はない、もうこの世での一番の神様の御厄介者だろうと。にも拘らずこの様なおかげを頂いて勿体ない、やれ有難やとこう言うておるんだけれども、時々自分はよかばってんあっちが悪かというね。だからここの所がです言わば起こります、人間ですから。あの人が悪いと言う様な心が起こって参ります。こっちは悪くないという様な心がありますけれども、だからそれは表に出さずに、その心と戦って行けと言うのですね。
 その吾よしと思う心をです戦い抜いて、それを打ち負かして行くというか、というものを自分の心から除いて参りません限りはです。折角屑の子の自覚が出来たのに、だから屑の子程可愛いと仰るのだから、神様は取分けその屑の子に目を掛けなさる事も事実です。だからああ本当にね自分の子供の中に屑の子が居る。頭の悪いとが居る器量の悪いのが居るね。例えば自分の子供の中に不具者があるとするならです。本当にその子の行先を思えば思う程です。こげな器量の悪か娘は貰い手があるじゃろうかと。
 やっぱりその器量の悪か娘に一番思いが行くのですね。それが片輪であるならば尚更その思いは、その不憫の情というものはつのるのです。かと言うてですどうにも出来ないでしょう。だからというて、親が思いを掛けたからというてどうにも出来るものじゃない。だから屑の子の自覚に立ってというのは、私の様な者、だから私の様な者でも信心しておかげを受けてくれよと仰るのですから、そこから言うなら健気な信心とでも申しましょうか。器量の悪か上に根性の悪かとが居るですのうや。
 本当に片輪根性というてからですね。片輪者程根性が悪いのがあるんですばい。だから信心はそう言う所に目を付けさして貰い、おかげを頂いて自分は人並みの事は出来ん、自分は手が不自由な足が不自由なと。だから特別の言うならば精進が必要と言う事になるでしょう。昨日テレビでもう随分前のお話でしょうけれども、博多工高(高校)ですかね。野球の選手で小児麻痺で片一方の足が不自由なんです。
 それでいて野球の選手ですね。甲子園の試合まで行ったという人が、奥さん貰って子供さんもあるその人を何年前、何かね「テレビは見ておる」か何かと言う様なあれでやっておりました。それはもう名投手だそうです。走って行かれるのもチンバチンバで走って行きなさるですね。ですからもう自分は足が人並みじゃないからというので、そこん所の精進というものは、人が一つする時には五つも六つもの苦労があったのに違いない精進があったに違いないですね。だから屑の子の自覚が出来ただけじゃいかん。
 そんならそこからね本気で信心をさして貰う、本気でその事に自分はこの位の人間じゃからね。本気で言うならば人がにんべんなら、私は行にんべんという様な気持ちで信心をさせて頂くとです。愈々屑の子ほど可愛いという神様の思いが掛けられるだけではなくて、それが言うなら大きなおかげの元になる。私はおかげを頂くというてもですね、その深さというか広さというかおかげを実感するというてもです、人それぞれにその実感が違うと思うです。本当に神様のおかげと思うておる。
 だから病気をする薬を飲む。医者に掛る。本当に神様のおかげと言いよるばってん、あそこの医者は上手とか、あの薬は効いたとかという、それだけもうだから決し、て医者に掛っちゃならんの、薬飲んじゃならんのとは申しませんけれども一つ本当に、神様を分からせて貰う、信心させて頂く貰う為にはです。もう本気で神様のおかげで助かるんだなと、神様のおかげで治るんだなと、してそのおかげを頂く。
 そのおかげの在り方がです。本当に素晴らしいおかげになって来る体験を本気で積まなければいけないと思うです。ちょっと困った事があるとすぐに人に頼る。人にすぐ頼む。昨日もある金銭のお繰合わせを願われとる方が、お電話で〇〇さんにお願いに行って良かろうかとこう言う。そこで神様にお願いさして頂きましたら、あの浪速節の見台といいますかね、見台の上に布が掛けてありますよ。見台掛けと言いますよね。例えば広沢虎造さんなら広沢虎造さんえと、〇〇からとひいきから送られるものです。
 あの言うならば見台掛けがです。自分自身が作っとったのと、人から言うならひいきから贈られたのというたら、どの位値打ちが違うか分かりませんね。どんな、金を掛けて立派なものを作っとっても、そりゃ値打ちはないです。けれどもそれがひいきから贈られたと言う所に、値打ちがあるのです。あの人に頼ってあの人から借りた。ああ神様のおかげでお繰合わせを頂きましたとこう言う。もうあの人のおかげでが出て来るから、もう神様のおかげは半減してしもうとる訳です。
 だからそういう心ではねそれこそ凄まじいまでの本当の神様の働きを受ける事は出来んです。本当に縋らんぞと縋ってもみる頼ってもみるけれどもね、いよいよそれが本当に縋れない。本当にそれが出来ない事が愈々分かったらです。もう神様に一心にお縋りする以外はないと言う所から生まれてくる所のおかげです。そういうおかげを頂いて、初めておかげ。神様から、もう一から十までを贈られた所の、言うならば見台掛けと言う事になるのじゃないだろうか。
 値打ちのあるおかげです。ああ本当に神様のおかげで薬一服でも神様のお恵みの物じゃから、お供えさせて貰うてそれを頂いたよう効きました。ああ神様のおかげでと言いよるけれどもそのおかげの、しかしあの薬がよう効いたと言う所だけもう減っているです。とてもとても神様のおかげというものは、そんな薬の効くの効かんの、あの人に頼むの頼まんのといったこっちゃないです。神様の凄まじい働きというものは、例えば宮崎の網さんあたりの上に起こっておるのがそうです。
 もう親先生一心に縋る以外ない。その思いが非常に誰よりも強いと言う事なんです。神様にお願いをして、病院に行きました。神様にお願いして、誰々さん方に金借りに行きました。成程お繰合わせ頂きましょうけれども、それはどこまでもそれはおかげであってね、お徳というおかげにも継ながらないし、凄まじいまでの働きというものを見る事も出来ませんから、有難いと言うておるのは、その程度の有難いと言う事になるのです。本当の有難いというものが真に有難いというのです。
 真に有難いというものでなければ、自分の都合の良か時にはおかげ、都合の悪か時にはおかげじゃない様な考え方しか起こって参りません。御理解八節というのはです。いうなら屑の子の自覚に立って、しかも自分は屑の子だから。なら昨日の野球の選手じゃないですけれども、自分はこうやって足が悪いんだから、人並みの修行ではというので、それこそ人の何倍もの修行させて頂いて、立派な一人前の投手として、言うならば力が付いて来る様なもんです。
 「信心しておかげを受けてくれよ。」と神様が頼むように言うておられるわけね。あの人に頼んだ、この人に頼ると言った様な、それこそ「金の杖をつけば曲がる。木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃ」という様な信心は分からんです。神を杖につけば楽じゃということは、もういうなら最高のおかげです。自分自身が今、楽でないならば神を本当に杖についていない。おかげ、おかげと言いよるけれども、神を杖についていないと言う事になるです。「神を杖につけば楽じゃ」。
 あの人をついとる薬をついとる、お医者さんを杖についとると言う事になるのじゃないでしょうかね。言うなら金や木や竹をついとる様なものですから、いかにも頼りになるごとして金を。金は曲がる、木や竹は折れると言う事になって、本当の信心は真に有難いと言う様なものは育って参りません。だから屑の子の自覚に立つと言う事。だから屑の子の自覚に立っただけではいけん。神様がああ可愛い奴じゃと思いなさる事だけは思いなさろうばってんからね。
 そこでなら屑の子の自覚に立ったら、そこから一心発起させて貰うて、人がにんべんなら、私はぎょうにんべんと言う様な信心をさして貰うて、もう誰にも頼らんぞ。ものにも、いうなら金にも木や竹には頼らんぞ。神を本気で杖につかせて貰う。もう本当に娘は、もうちっとばかりいき遅れとると、もう見合い写真ば沢山作って、まるっきり配って回らっしゃる様な人があるです。そげなこっちゃおかげは受けられんです。何かさあ仕事というたら、もうあの人に頼むこの人に頼む。
 私は思うのにね向こうから来るとならおかげです。金でも貸してあげましょうというて借るのならおかげです。貸してくれというのはおかげじゃないです。そりゃ貸してくれと言えば貸してやる。だからおかげは頂くけれども、それでは力にはならんという意味です。例えばあの脇息ですね脇息がここにあるから、それにこうやってもたれ掛るのですけれどもあの人に頼っとった所が、もうそれにもたれよう思うとった所が、その人がちょっと後ろにひざったら、自分がひっくり返らんならんじゃないですかね。
 今日は皆さん信心のね、本当にギリギリの真に、有難いという心が頂ける事の為の、お話を聞いて頂いているのです。いうなら自分で作る見台掛けではなくて、ひいきから贈られる値打ちのある、見台掛けでなければいけないと言う事を、聞いて頂いているのです。でないとね、あれもおかげ是もおかげと言う事になって来ないのです。愈々ギリギリ本当にお金の不自由をした、その事のおかげでです。
 誰にでも頼らんでもよい、縋らんでもよい。言うならば道が体得出来たという時に、初めて真に有難いという、もう誰よりも神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないという本当の実感がわいて来るんです。だからなら人にも頼らん、物にも頼らんと言う訳ですけれども、というてなら神様にも一生懸命縋らんというなら、是はいけませんです。だから神様には命懸けで一心に縋ると言う事。
 「信心しておかげを受けてくれよ」と言う事はそうです。昨日は久保山のおばあちゃんの告別式が、もう本当に、もう切って継いだ様な見事な告別式でした。御祈念中に頂きました事は、あの「澤」という字を頂いた。サンズイ偏に漢字の「四」を書いて、下は幸福の「幸」という字を書いてあるでしょ。この漢字の「四」と言う事は、死に通ずる事でしょう「親先生、生きておる間もおかげを頂いて参りましたが、こちらへ参りましても私は幸せです。おかげを頂いとります」という。
 もし昨日の告別式にです、是を遺族の者にも伝えて下さい、皆にお参りしておられた方達にも聞いて貰って下さいと、霊様が言葉を以て言うならばです「私はこの様におかげを頂いとります」と言う事だと私は思いました「澤」と言う事は、言うならば水に関わり合いのある事ですから、お恵みおかげ、全体がおかげと言う事になりましょうね。言うならばこの「幸」という字はそれを逆様にしても矢張り「幸」と読むのです。
 幸福の「幸」という字は、反対にこうひっくり返してもやはり「幸」という字に読めます。それこそ生きてもおかげ死んでもおかげ。そういう信心を心に開いておったおかげでです「こちらへ参りましても、お恵みの中にあるおかげを受けております。遺族の者にもこれを伝えて下さい。また皆お参りしておる方達にも、私の助かっておる模様をお伝え下さい」と言う様な意味ではなかったろうかと思わして貰いましたね。そういうおかげというのはです。あの人に頼り、この人に頼ると言った様なね。
 いわゆる木や竹を頼りにする様な、金を頼りにする様な信心からは生まれて来ないと言う事です。あれもおかげであった、是もおかげであった。自分の都合の良い事だけがおかげという様な事ではなくて、それとは反対の事になっても、それを幸せと感じれれる信心が頂ける事のために。先ず言うならば屑の子の自覚、自分というものを教えの鏡を立てて見て、あの人じゃなかった、この人じゃなかった。
 自分が一番悪かっちゃったと分からせて貰い、自分自身が一番汚い、一番つまらん自分であったと分からせて貰い、分かったごとあるけれども。時々あの人がと言う事がでける。そういう時に、われよしと思う心を仇という様な気持ちでです、それに取り組んで取り除いて行けよと。そして神様に一心にお縋りさして頂いて、おかげを受けて行けよということなんです。屑の子の自覚に立っただけではいけん。屑の子の自覚に立ったら、我いうならば心の不具者である自覚に立って。
 体満足の人達の当たり前の様なことでは、矢張り一生不具者で終わらなければならない。けれども不具者ではあるけれども、それこそ塙保一(はなわほきいち)じゃないけれども、目明きというものは不自由なもんだと言うたそうですけれども、その位な超越した、言うなら力が付くと言う事はです。不具者の自覚、我屑の子の自覚、そして言うならば自覚が出来たところから一心発起させて貰うて、神様にお縋りして、おかげを頂かなければ出来る事ではないという信心してと言う事になる。おかげを受けた。
 そのおかげこそがですそれこそ、一から十まで神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないと、分からせて頂いた時に誰よりも、言うなら目のつんだ有難い、言うなら真に有難い、という心が生まれて来るのです。その真に有難いというその心には、八節の八の字じゃないけれども、広がりに広がって行く、言うならおかげ、それはもうそのままが徳だからなんです。
   どうぞ。